「mother」は年の差百合である

初めまして。

女子同士や男子同士の、愛情というよりは制御不能な執着を貪り食って生きる妖怪です。宜しくお願いいたします。

いかにもの中にどっぷり浸かるのも楽しいですが、いかにもではないものに密かな輝きを見い出すのが好きです。

たとえばこれは先日のテレビ番組で、ある男性アイドルグループの話ですが、メンバーのAとBがその場のノリでキスせざるをえない状況に追い込まれました。実際彼らはキスをしたのですが、ここで重要なのはAとBの間の営業キスではなく、その後、無理強いされたせいか少しげっそりした様子のAの肩を画面に入るか入らないかの位置で「まだ収録中だからしゃきっとしろ」と言わんばかりに真顔で叩くCの存在です。そう、これはABの事案ではなく、ACとして捉えるべき事案なのです。いかにも派手な出来事はただの陽動でしかなく、真実の歴史はその奥でひそかに動いている――

こういったことを朝から晩まで考えています。

ところで実際に自分が女性が好きだと、身につまされて読むのが苦痛になってしまったり、あるいはあまりにもありえない物語で感情移入できなかったりとなかなか自分が気に入る百合を見つけ出すことは困難です。そのうえ、百合と想定されていない作品になにがしかを見い出すことが好きという性癖なのでまさしく自縄自縛の自業自得。

そんな中、心が疲れるとつい見てしまう百合ドラマ、それが「mother」です。そう、あの芦田愛菜センパイの出世作です。えっ(疑似)親子ものじゃないの?と思われる方も多いでしょうが、違います。

これは年の差百合の文脈で語るべき物件なのです。

脚本の坂元裕二は女性の描き方に定評がありますがそれに限らず、当事者性の根っこをえぐり出してくるのが非常に上手いです。「ギミー・ヘブン」においても、共感覚を題材にしてその孤独や非共感覚者とのやりとりを描くという発想はありふれていても、まったく同じ共感覚を持つ=その二人だけが分かち合える世界、という解釈はそれまでになかったように思います。物語としても美しい場面でした(監督は下手でしたが)。

その坂元裕二が手がけた疑似親子の物語は、血縁でないものが繋がるステップの本質を描き出したがゆえに、家族ものではなく百合としての性質をあらわにしました。物語には怜南(芦田愛菜)の虐待を疑って行動を起こしたり積極的に呼びかけをする女教師も登場しますが、坂元は彼女を決して主人公にはしません。彼女は自分の休日のデートは優先しつつ、できる範囲で怜南をサポートしようとします。彼女の行動は「他人」としてまったく正しいですが、視聴者が好感を持つようには描かれません。また怜南も彼女を信用しません。怜南が信用したのはなぜか、特に自分を気にかけるでもない教師、鈴原奈緒松雪泰子)でした。

ドラマを見る限り、先に相手に興味を持ったのは怜南のようです。子供慣れしておらず、子供好きでもない奈緒をどうして怜南が気に入ったのかは詳しくは描かれていません。彼女を虐待するかベタベタとおためごかしをするか、どちらかの大人しか周りにいなかった怜南にとって過度の同情をせず詮索もしない奈緒の距離感が心地良かったのかもしれません。ですが、大人と子供、という関係だけを考えたとき、これはとても不自然に映ります。なぜなら実際に奈緒のような態度の(他人の)大人に子供が懐くことはありえないからです。ですが、ここで年の差百合という視点を入れてみましょう。最初に出会ったときから怜南には分かったのです。わたしはきっとこのひとを大好きになる。誰かにたすけてほしいという気持ちとは関係なく、このひとはわたしにとってとくべつだ、と。あの寒い朝に「怜南もつれてって!」と海岸で叫んだのは渡り鳥にであって、決して奈緒にではありませんでした。奈緒は一緒に生きていく相手であり、生きるために縋る相手ではなかったからです。ただ、怜南はあまりに小さかったために、守ってもらわざるをえない立場で、そのために逃避行も疑似親子というかたちになってしまったわけですが。

さて、一方の奈緒の方はどうでしょうか。彼女が怜南に惹かれた理由は比較的分かりやすく描かれています。ドラマでは母性ということで理由付けされていますが、当然ながらそんなものではありません。男性だろうが女性だろうが老若男女の全てとの人間関係を遠ざけてきた奈緒が、虐待されている子供かわいそう、だけで誘拐するほど心動かされるでしょうか。まずありえません。ではなぜ?答えは簡単です。少数の男性から性的に興味を持たれること(それを奈緒は嫌悪しています)以外に他人から関心を示されて来なかった奈緒は、初めて「自分の好きなものを好きと思ってくれる」相手と出会ったのです。それが怜南でした。

怜南の押しに戸惑いつつ、あくまでも大人として対処していた奈緒が被虐児としてではなく怜南自身に惹かれるようになるきっかけは「渡り鳥」でした。奈緒は渡り鳥の研究者で、研究室の閉鎖によって怜南のいる小学校に理科教諭としてやってくるのです。奈緒から聞いた渡り鳥の話に怜南は興味を持ちます。怜南の質問に奈緒は熱を込めて答え、渡り鳥が見られる場所があるからと深夜に毛布を持ち出してそこへ出かけようとまでします(まるで子供のように!)。怜南は「(家に帰らなければならないので)今度にしようかな…」と遠回しに行けないと伝えると、奈緒はハッと我に返ったように毛布を仕舞います。思わず夢中になってしまった自分を恥じるように。それは感情を出さなかった奈緒がこのドラマで初めて「思わず我を忘れる」場面であり、そうさせたのは他ならぬ怜南なのです。奈緒が好きなものを理解して、共感してくれた。研究対象としてではなく、渡り鳥が好きだという「気持ち」、それは分かち合えないもののはずだったのに、そうではなかった。「あなたが好きなものが好きだ」と言ってくれる人がひとりだけ、ここにいた。誰とも分かり合えることはないと思っていたのに、それを与えてくれたのは(偶然にも)幼いこの子供だった。

繰り返しますが、奈緒が怜南と共に逃げることを選んだのは、虐待されてかわいそう→守らなきゃ、ということではありません。やっと見つけた分かり合える相手がたまたま被虐児で私の庇護を必要としていた→であれば疑似親子として守るのが最良の選択、ということなのです。

さて、ここまでの内容は全て第一話です。物語はここから、波瀾万丈の逃避行が始まります。母性がどうのという台詞もあったりしますが、そんなようなものではないことはドラマ全体が証明しています。

継美と名を変えた怜南が、実の母よりも奈緒を選ぶ場面が震えが来るほどです。あれほどまでに激しく「選ばれる」こと。凡百の恋愛ドラマではまずお目にかかれません。

これほどまでに年の差百合である「mohter」がただの親子ドラマとして消費されているのが私は悔しいです。ぜひこれを百合ドラマとして見てみてください。そこには豊穣な大地が新たに広がっているはずです。

 

再会した継美と奈緒が手に手を取って生きることを望みながら。

ASKAについて考える

現在30代半ばの私にとって「チャゲアス」は「小学生くらいのときに流行ったアーティスト」である。自身の世代としてはいわゆる小室全盛期であり、同世代のチャゲアスファンは珍しい存在だった。だが曲そのものは皆知っていたと思う。個人的には「モーニングムーン」やASKAソロでは「ID」が好きであったりする。

とはいえ特別にファンであったわけではない。そういった、名前も曲も知っているがさほど思い入れのないアーティストが書いたブログを読む、というスタンスで今回彼が発表した(残されているのはキャッシュで、大元は削除されてしまったようだが)文章を読んでみた。

いや、これは凄まじいものである。ハウス加賀谷の闘病記や、卯月妙子の「人間仮免中」を彷彿とさせる。比較対象でお察しかとは思うが、要するに「そういう」手合いのものである。しかしそれらと決定的に違うのは、ASKAには病識がないということだ。既に治った人間が書いたものではなく、今まさに渦中にある人間によって書かれた文章である。卯月妙子の著作などは彼女の漫画家としての技量と、まだ完全には寛解していないという事情もあってか語られる病のエピソードの臨場感ときたら、もらい発狂しかねないほどの圧があるが、彼女には少なくとも書いた時点で病識(=客観性)がある。

しかしASKAにはそれがない。

「証言不可能性」はホロコーストなどでときどき取り上げられるトピックだ。ホロコーストの中心を証言することは不可能である。なぜなら、その中心にいるということは死を意味するからだ。今残っている証言はシュワルツシルド半径の外からブラックホールを観察した結果と似ている。決してその中を我々は見ることができないし、見た者は戻ってくることができない。もちろん精神の病からは治療によって戻ってくることはできるが、その中心からの告白は可能だろうか。

「狂人が叫ぶのは苦しいから」とどこかで読んだことがある。当たり前だがハッとした。そうだ、狂人が叫ぶのは「狂っているから」ではない。狂っていることによって生じる苦しみにによって叫ぶわけだ。とするならば、狂っていることが叫ぶ(=言語化できないほど支離滅裂になる)ほどの苦しみを生み出さなければ、冷静でいるということは可能だろう。そしてASKAはその意味でまさに冷静であると言える。ゴースト説もあるが、そうでなければ、諸事情で書けなかったこと以外は彼の主観的真実だろう。正気と狂気がまだらに入り乱れている彼の手記はまさに中心からの告白、証言不可能なものの貴重な証言の断片である。

…と、大上段にぶち上げてはみたものの、私は特に当時の事実関係に詳しいわけでもなく芸能界の繋がりやゴシップに興味があるわけではない。具体的内容については気になったところだけを拾っていきたい。

まずは「薬物に手を出した理由」について。

ASKAが捕まった当初、「仕事が忙しく睡眠時間がとれないため眠気覚ましとして薬物を使うようになった」という報道を耳にし、彼くらいの大物アーティストは時間がない中で良い曲を書くことを求められて大変なのだろうなと漠然と同情した。つまり、薬物の力を借りないと作曲などができない状態だったんだろうと考えた。しかし「4.ピンチとチャンス」のくだりを読めば分かるように、ボーカルとしての最大の危機も彼は自分で歌唱法を工夫することで乗り切り、作曲ができなくなってしまったときでさえ楽器を変えたりすることでスランプを克服している。ロンドンでのMDMAの使用(1度きり)と喉の不調から睡眠不足になったため使用した睡眠薬としてのGHB以外は手を出していないのだ。

ではなぜ彼は覚醒剤にまで手を出すに至ったのか?

彼のブログを読み進めると後半になるに従って頻繁に出てくる表現がある。それまでは彼の健康上の問題はむしろ睡眠不足にあったように書かれているのに、次第に「眠気を抑えられる」「目が冴える」「私はただ目が覚めるのが欲しかった」と眠らないようにしている記述が目立つ。それは何のためか。

自分を執拗に付け狙う「盗聴犯」を捕まえるためである。問題のこの「盗聴犯」、本人によれば覚醒剤の幻覚などではなく、その2年ほど前から既に現れていた奴ららしい。彼らをネット上で追いかけるためにASKAは夜を徹して起きている必要があり、眠らないために非合法の薬物に手を出すうち、偶然にかあるいは仕組まれたのか彼は覚醒剤を使用させられてハマってしまう。覚醒剤統合失調症を増悪させると言われている。冗談ごとではないが、まさに一時期出回った悪循環コラ画像の見本のような状態だっただろうことは想像に難くない。

つまり彼が「薬物に手を出した理由」は本業とは全く関係がなく、薬物使用前に発症した幻覚・幻聴によって眠りを阻害されたことが直接の原因と言える。スタッフは「盗聴話には反応するな」と言い渡されていたようだ。病識がないため医師にも普通に盗聴話をしたのだろう、「精神薬」を処方されてはいるが服薬を拒否している。措置入院などになれば外聞も悪く、暴れるような危険行為もないため無理に入院などさせられなかったのだと思うが、誰かが強引にでもそうしていれば…と思わざるを得ない。

次は、「盗撮犯」について。

どう好意的に解釈したとしても、申し訳ないがこれはASKAの妄想だろう。ハウス加賀谷の闘病記と似ているとも書いたが、「ぎなた読み」のくだりなどは「ビューティフル・マインド」を思い出した。何でも無い記述に過剰な意味を読み込んでしまう。とはいえ専門的な知識がないのでこれ以上は差し控えたい。「19.後記」にて「盗聴と盗撮が一切なくなった」と書いている。追記を見るに未だ病識はないようだが早期の回復を祈りたい。

その他気になったことなど。

特に後半、トピック内で年代があちこちに飛ぶのでいつの出来事なのか時系列で理解しにくい。ただこれは何かの症状というよりは、思うまま書いた草稿の段階ゆえだろう。飯島愛のくだり、おそらく当時は彼女のことを被害妄想っぽいと思ったのではないだろうか(「笑いながら聞いていた」のくだりから)。しかし実際自分がそうなったときに自分も飯島のように過敏になっているのでは?と思うのではなく、飯島が言っていたのは本当のことだったのだ、となるのが人間の認知の難しいところ。盗聴器を探すところで飯島の部屋に脚立や工具が揃っていることについて「こういうところが何だか笑えるのだ」とホッとする記述が混ざっているところが面白くもおそろしい。飯島の経歴でいろいろ言う人もいるんだろうが、彼女とは良い人間関係があったのだろうなと推察される。

以上がASKAのブログを読んだとりとめのない感想である。「林先生案件w」で済ませれば良いところを何だかんだと書いたのは、自分もいつか精神バランスを崩すんじゃないかという恐れがあるせいでASKAのブログが自分が想像した以上にグッときたせいかもしれない。おそらく彼にとって「盗撮犯なんていませんよ」と言われるのは、たとえば普段接している同居の家族がいるとして、「あなたに家族なんていませんよ。一人暮らしじゃないですか」と突然言われるようなものなのだろう。

平野耕太ヘルシング」の中にこんな台詞がある。

「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保証してくれるというわけだ(中略)ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」

私は正気であり、あなたも正気であり、ASKAも正気である。

狂気とは名乗ることを許されぬ正気に過ぎない。